物の軽重


ある日、修行僧が集まり法話を聞いていたときに、教えて言われた。大道谷泉は、「風に向かって坐り、日にあたって眠る。時の人が錦の衣服を着るのよりまさる」と。


この言葉は、古人のの言葉だけれども、少し疑いを覚える。時の人というのは、世間で利を貪っている人のことを言うのだろうか。もしそうならば、そのなことを相手とするのは尤も低級であり、あきれたものである。


もしかして、仏道を行ずる人を云うのであろうか。そうならばどうして錦を着ると云うことがあろうか。


こうした心を察するに、衣服を重視する気持ちがおもてとしてあらわれると見える。本当の聖人はこうではあるまい。
金の玉と瓦や石を等しくみる。執着しないのだ。だからお釈迦様は、牛飼い女の差し上げた乳の粥もお食べになり、馬の飼い葉にする麦もいただいてお食べになった。差別することがなかった。仏法において物に軽重はない。人の心に深い浅いがあるのである。


今の世は金玉は貴重な物であるからといって人が与えるのも受け取らず、木石は軽い物であるからといってよろこんで受け取るが、よくよく考えてみなければならない。
金玉ももとは土の中から得た物であり、木石も大地から得たものである。それなのにどうして一方は重いからといって受け取らず、一方は軽いからといってよいと思って受け取る。


この気持ちを考えてみると、重いものを得て執着する気持ちがあるのと、軽いものを得て愛着するのは、その罪は同じである。この点を仏道を学ぶものは心しなければならない。